真面目過ぎるな人には、もしかするとそれを他者にも求め、いい加減な人を「許せない」という宗教的、仏教的な罪が
不真面目な人はその行いによって共に生きるものに苦労を背負わせ、悲しませてしまうという罪が
清廉潔白、正しくいきたい人には、誰かを見捨て、人に関わらずに生きているという罪が
賢い人には、出きることを前提として、出来ないことへの理解不足が
暴君は、考えても無駄と思わせ、相手を思考停止にさせる罪が
あるのでしょう
どの人生を選んだとて、人が生きるとはある意味独善的で、分別をしてしまうということ
(仏の智慧は無分別智)
たとえ自分の過去に学び、深く後悔しても
忘れた頃には同じことを繰り返してしまうという、どうにもコントロールできない行いもある、それを「業」という
その「無慚愧」の姿が自分にみえたとしたら、これこそ
阿弥陀如来がもっとも救おうとされる対象のもの
無慚無愧のわが身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
親鸞聖人「正像末和讃 悲嘆述懐讃」
「そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」 夏目漱石『こころ』

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